小林秀雄のドストエフスキー評論

小林秀雄全集の「ドストエフスキイの作品」を読む。どうしようもなく詭弁で俺様だが、なんかやはり抗しがたく他で得がたい魅力がある。笑ってしまう。(スタヴローギンを評して「悪魔は仮面を脱いで正体を表した、というような事態は、小悪魔にしか起こり得ない。彼は骨の髄まで仮面である。これは比喩ではない」などと書いてある。馬鹿か。)
若いころの小林秀雄は文学力と人間力のつりあいがとれていないようにどうしても見えるのだが、年をとって「本居宣長」のあたりはつりあいがとれているどころかmixupしているような感がある。しかし、若かりし小林のような人が円熟した小林のような人に上手いこと成長するのはよく考えるとかなり困難なのではないかと思う。どうやって自滅を防いだのだろう。ベルグソン論を読めばなんかしらヒントが得られるのだろうか。

「悪霊について」で、答えが得られる保証を見つけてから問いを逆算して立てるような飼い慣らされた問いなど全然問題ではない、そんなので苦悩づらをするな、答えがないようなナンセンスな問いをどうしても人間は立ててしまうものだし、これに対してどう始末をつけるかというところが本当に難しいんだ、と書いてある。この点には気がつかなかった。
以下はtabesugi.netのメモからだが、

ところで (てくるで)、よく人々は「何の罪もないのに病気になった/障害をもった」といったような言葉を使うが、この心理は実は「いい子にしていればいいことがある」という信念のあらわれであり、逆にいえば「罪がある人間は病気になってもよい」という、おそろしい理論への支持を示している。 例の「カミさまが悪い人間を罰してくださる」ってわけですよ。こういった連中は、「先祖が悪いから障害をもった子供が産まれる」とかいってるのと (電波の程度は違うけど) 同質だ。実際には極悪な人間でもピンピンしているし、だいいち、こうした「脅し」によっていい子になっている人間ほど信用できんものはない。まあ、ウケはいいでしょうがね。ちなみに、だからキリスト教では「奇蹟を見せて人を脅迫するのはよくない」ってことになってて、なんの証拠も脅迫もなくても 自主的に神を信仰した人間しか天国に入れてあげないことになっとる。しかし、この言明自体も「メタ脅し」になってるわけでして…こうした「メタ脅し問題」は、なんらかのシステムによって教えを伝達する限り原理的に排除できないので、結局は「完全に自主的な信仰」などというものはムリなのだ。たぶん、完全に自主的に神を信仰できたのは、世界ではじめて神とゆう概念を思いついた人間だけだろう。でも、そのときの「神サマ」の概念は今とはかなり違っていたんではないかなあ。

前半は大審問官のあれだが、この部分は気がつかなかった。しかし、こういうところに気がついてしまうのが知恵のリンゴのすばらしさ恐ろしさその物に見える。
やな表現になるが、信仰を自分との信頼の取引、自尊心のブートストラップだと考えれば、案外ゲーム理論で解明が可能なのかもしれない。しかし信仰が確率モデルで説明される世界観はそれはそれで嫌だな。(科学的?には、自尊心ってどういう説明がされているのだろうか?)


関連して考える。自分のいまの善悪の判断基準、価値観はどのようになっているのだろうか?
日常生活ではそれほど悪意を受けることもないし、むかつきはわりとささいなことだ。人間関係や社会生活でなんらか嫌悪感を感じる場合、それは「おれの見積り感覚ではそれは社会的に大赤字である」というふうに翻訳できる。で、赤字とか黒字ってのは、ある種の不可逆性に対して得られるものがあまりにも少ないということだ。不可逆性がきもだ。そしてこの不可逆性は、責任という考え方とかなり結びついていると思う。

責任という考え方は固有名詞や言葉、人間の認識の仕組みによって生じる道具であり、必要悪であり、自分で自分に責任を持つということはできても人に対して要求するようなものではない、と強く思う。こういうセリフは一番嫌いだ。しかしこれは価値観なんだか美意識なんだかまぬけな自己防衛なんだか、よくわからん。というか、かなりあやしい。責任なんて勘弁してくれ、不可逆性なんかやだよ、という感覚は強くあり、これはアホのセリフなんではないか。どうしたものだろう。