人類VS乱数

「悲劇は人間肯定の最高の形態だ」という台詞がある。ひょっとしたら一生忘れられない名台詞なのではないかと思う。私なりの理解をまとめる。「モデル」が未定義語。

  • 悲劇のおもしろさ

大抵の悲劇は、不運と悪意の連鎖によって不幸になる物語だ。こんな辛気臭いものがなぜおもしろいのか。それは運というモデル化できないものを人間に理解可能なモデル、つまり物語として無理やりまとめているという矛盾が人生そのものにすごく近く、様々な感情を呼び起こしやすいからだ。なぜか生まれなぜか死ぬという理解不能さとは万人が戦っている。万人にとって感情を呼び起こしやすいのだ。

がんばったのにだめだった、理由もないのに不幸に陥る、というのは、「なせばなる」「ああすればこうなる」「Y=αX+e」といったモデルではない。理解するというのをモデル化すると近似すると、悲劇はそうではないため極めて理解しづらい。解析できず、腑に落ちないし救われない。つまり理不尽をパッケージしたものが悲劇だ。

悲劇ではないお話、例えばシンデレラを考えてみると、幸運が介在してなんらかの社会的勝利を掴むお話だと考えられる。ここでの幸運はシンデレラがたまたま美しく生まれたということだろう。しかしこれだと「美しさは希少な価値であり、権力者あるいは富裕層に優先的に配分される」というモデルと合致しており、物語がモデル化されてしまう。モデル化できるものでモデルを作って勝ったお話だと、その勝利は人間よりもモデルに属するので、主人公の人間力は試されない。

それに比べ、モデル化できない不運さに直面した悲劇の主人公は、人間力を用いてじたばたと色々なやり方で戦う。大抵は敗北する。しかしその敗北は万人が普段から行い考えていることを濃縮したものだ。感情移入しやすいし、人間力の試され方、使い方を見て姿勢を正すことができる。

こういうことを陰に陽に考え、数千年前から悲劇を作ってきたご先祖様はすごい。まさに悲劇であり人間肯定の最高の形態だと思う。

派生して考えたこともまとめておく。

  • 社会には目的はない。組織の構成人員が増えるにしたがって、組織の力が強くなるのにしたがって、どんどん個人と組織の行動原理は乖離する。目的はあいまいになる。一番大きい組織である社会には目的がない。目的がないと困るので、たいていの社会には不幸を減らす、真理を開拓する、人類を進歩させる、という題目がある。しかしこれは社会の目的ではなくて、制約条件と考えるべきだ。「利益が企業にとって目的ではなく制約条件である」。
  • 老人になるともろもろの割引現在価値が計測不能になる。成長とか異性がギャグに過ぎなくなったとき、人間は一体どんな風に考えてどんな断末魔をあげるだろうか。人事ではないのでぜひ知りたいが、この断末魔は若い者に語っても絶対に共感を得られないだろうから、よほど仲良くないと大抵の年よりは語ってくれない。