オネーギンとタチヤナ

mozaicから再録。小林秀雄の「政治と文学」という講演録にある。考えるヒント2か3に収録されていたはず。ある種の人間の運命をおぞましいくらい的確に描写しているように見える。

.. この本に、「プウシキン論」が載っている。(中略)

.. この講演の中心点は、プウシキンの「オネーギン」という恋愛悲劇の分析にあるのですが、ドストエフスキイの考えによれば、「オネーギン」は寧ろ「タチヤナ」と題すべき作で、オネーギンという教養ある複雑な人物より、タチヤナという単純な田舎娘の法が、実はよほど高級な本当の意味で聡明な人間だという洞察に、プウシキンの天才があるという。
.. 成る程オネーギンは聡明でもあるし、誠実でもある、自ら「世界苦の受難者」を以って任じている。しかしこういう「世界苦の受難者」の心にひそむ「下司根性」を見抜くには、現代ロシアに沢山いるオネーギンたちのいわゆる鋭い観察などでは到底駄目である、それにはまったく別な何かがいる、その別の何かをタチヤナの眼が持っている、「オネーギン」という作はそういう認識の悲劇であるとドストエフスキイは見るのであります。

.. タチヤナは都会からやってきたオネーギンに恋をする。オネーギンはこの臆病な小娘に何の関心も無い。彼女は絶望し、やがて母親のために愛の無い結婚をし、貴婦人として都会の社交界に現れる。今度はオネーギンのほうが恋をする番だが、彼女は拒絶する。タチヤナは依然としてオネーギンを愛しているが、貞操を破ることは出来ないといって男を拒絶する。何故大胆に一歩を踏み出せなかったのか。

.. ドストエフスキイは、そうではない、タチヤナは大胆なのだ、ロシアの女はみな大胆なのだ、問題は、多くの批評家が論じたような恋愛と道徳の相克などには無いのだ、というのです。成る程彼女は古めかしい道徳をはっきりと口にし、それを信じてもいる、が、彼女の心の奥のほうにはもっと違ったものがある。当節の批評家は、彼女自身気のつかない高慢心がある、上流社会の腐った生活に感染した気位の高さがある、そんなことを言うが、浅薄な意見で、プウシキンの思想を誤解するものである。

.. タチヤナは変わってはいない、汚れてはいない、不幸によって練磨された毅然たる人間になっているのである。恋愛に絶望した小娘の心に、すでに、「あの人はただのパロディーではないか知らん」という疑問が生れていることに注意し給え。このささやかな疑問をドストエフスキイは「道徳的胚子」と呼んでいるが、この疑問が、女の絶望的な愛の中で終にはっきりした認識に育ち、彼女は自信あるしっかりした女性となる、と彼は考えるのです。たとえ独身でいたとしても、タチヤナはオネーギンと一緒にならなかっただろう。この人には愛というものが不可能だと見抜いた人間と一緒になることは出来ない。女の心には軽蔑の念などひとかけらも無い、ただ悲しみがある、悲劇がそういう次第のものであれば、作者は理屈を言わず、女主人公を美の典型として描く他はなかったろう。そして美は肯定的なものである。オネーギンの不幸は、実は空想家でありながら、自分はリアリストであると信じているところである。オネーギンは、タチヤナという一個の人間を決して見たことはなかった。頭脳を知的憂愁で充たしているこの男が出会ったのは、女ではない。「憂愁の逃げ道」なのである。逃げ道のすばらしさに感動している。ということは、彼を動かしているのは、実は社交界というつまらぬ環境に過ぎないということである。一見極めて内的に見えるこの憂鬱な人間が、およそ無邪気な環境の犠牲者であることに気がついていない。この不幸なパロディーが、プウシキンによって看破されている。