数字の束

ふだん暮らしていて接する価格を「高い安い」と「高く感じる安く感じる」の二軸でプロットする。かならず矛盾するはず。
価格を束として考えると、マッピングはできにくくなるがそれは価値観をわりと近似している。それぞれ相互につながっており、高い安いの感覚を作る際に参照されやすいモノの価格とされにくい価格がある。何の値段を基準にしているかがあり、束は普通は安定しているがときどきぶっ壊れる。おそらく心の底から違和感が無いものの価格(メシの値段)がよく参照されるのだろう。自覚が難しいができると便利なはずだ。

(プライシングの心理学というのはいかにも膨大な研究の蓄積がありそうだが、それほど普及しているようにはみえない。なんでだろう。)


社会統計のデータも単独で考えるのではなく束で考える。「再分配政策の政治経済学」によれば医療業従事者が200万人、専業主婦(夫)の数が140万人。意外過ぎる。この意外過ぎるという私の感覚はどういう統計指標を基準に意外だと思っているのか自分でも不思議だ。こういう意外性を点検していかないと、農協の加入者数は何人くらいかとか、所得分布はどんな感じか、といったことを調べようとは思わず、ダメな意味での無知が加速してしまうようだ。

(統計指標の心理学というのはどれくらいの研究の蓄積があるのだろうか。想像がつかない。)