出生率の低下それ自体は問題ではないのではないか?

なぜ社会学が支配の意図を持つのか
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20040625/p2

さて、この数量化の対象は、自然に向いていたのだが、これが人間集団に向けるとどうなるか。
 人間集団を数量化するというわけだ。
 なぜか? 操作可能な対象とするためである。
 と、単純な話である。
 しかし、人間集団の内部には人間が存在し、人間の意志は、数量化を拒む、であれば、その数量化の方法論は本質的なところで錯誤を含むのではないか。と、ウェーバーは気が付いた。

 というわけだ。

拾い読みしてちょっと考える。数量化を阻む意志を持った人間がたくさんいると、それは数量化の対象になるから、一見「錯誤」しているようには見えないんだろうが..

ちょっと辛気臭い話だけど。少子化出生率の低下が問題だ問題だと思っていたが、どうも違うのではないか?
もし、出生率がすごく低下しても、たとえば20兆円投じることで合計特殊出生率を0.8上げることが可能であるとわかっていれば、他の社会的変数と同じく出生率をやりくりの対象とすることができるだろう。赤字国債みたいな感じで、「いま景気がピンチだから、出生率をここ5年がくっと下げて、あとで調子が良くなったら穴埋めしよう」という政治的な手段を選択できるだろう。しかし、いまのところそういうオプションがないのだ。
つまり問題なのは、出生率の低下それ自体ではなく、出生率が操作可能でないことだ。(あるいは、それを操作する社会的な経験がないことだ)
多分精確な計量は無理だろうが、、やな感じの話だが、もっと地域間でもなんでも経済的な格差が進行すれば、投資としての結婚の価値が相対的に向上していくはずだ。なんかそこでこぢんまりした社会的実験をやるチャンスがあるはずだ。
これが操作可能であることが証明?されたら、それはそれで困難な政治的課題を生むだろうが、それでもやみくもな閉塞感よりは断然ましだよな。
(根拠のないことはみんな薄々感づいてるにもかかわらず未だに人種差別があるのと同じように、根拠がないんだけど子供のない人は人間として「十全に生を生きたとは言えない」という妙な差別意識というか優越感の構造はあるだろうし、これからも残るだろう。いまのところ暗黙的なこいつが、明示的に国会で語られたり投票動機になったりするということかも知らん)


CBAの教科書に、「もし費用便益分析が完璧なら、民主主義を採用する理由はない。というか、政治がいらない」という意味のことが書いてあり、非常にびっくりしたことがある。
会社でプロジェクトAとBのどちらに投資しましょうか、というとき、DCFか何かを使って利益を予測し、大きい方を選ぶ。これは、その目標が一応利益という形で定量的に、数字で表せるからだ。現実問題としては、2000人のニートと2000人のみよりのない年よりにどちらにリソースを分配しようかというとき、それをきめる価値の定量的な基準がないので、政治が必要なのだ。この考え方は順番が逆だけど。