疑問と折り合い

ポール・グラハムがエッセイで「知識の量は知的好奇心の一階微分だ」ということを言っていて、なんとも機知に富みつつアメリカンぽいえぐいセリフだなあ、とちょっと驚いたことがある。
世間一般でも、知的好奇心の強さは賢さやアクティブさの現れとして、よい評価を受けやすいようだ。会話の流れでつい好奇心旺盛なふりをしてしまい、別にこんなこと興味ないんだけどなあ俺、とあとで苦笑するような経験はだれでもあるのではないだろうか。

しかし世の中には秩序に対して発してはいけない疑問というものがある。たとえば「『知的』好奇心などと、知的でない好奇心などありえないことも想像できないセリフを無自覚に発するその神経が不思議です」と面とむかって問われても困る。たとえ素朴に疑問なのだとしても、こういう疑問を発するのは明確な攻撃だ。うまいこと世渡りするには、そういう破壊的な副作用を引き起こさない問いを注意深く選んで、それを問うべきだ。




問題は、安全な謎や問いを注意深く選んで疑問に思うことが不可能なことだ。どういう類の「問題」に疑問を持つか、どういう謎ならまったく不思議に思わないのか。偉大な仕事を成し遂げた人の生涯は、そこらのニートなみに根源的で答えの出ない謎に対して問いかけ続けているようにしか見えないのだが、そしてその偉大さゆえに自分の問いは自分の生涯かけても解ける見込みが少なすぎる巨大なものだ、ということに途中で気づいているようにしか見えないのだが、どうやってその好奇心と折り合いをつけたのだろうか?

この線でいくと「知らぬが仏」ということわざは、「深淵を覗く者は、深淵から覗きかえされる」という西洋のことわざより一段深く、アダルトで狡猾で、ちょっと空恐ろしい。凡夫はどうしても、毒矢を抜くという単純なことよりも、「この毒矢はどこから撃たれたのだろう」という好奇心のほうが先行してしまうのだろうか。