アマチュアスポーツはキモい

今年、筑波8耐という自転車レースに出て、非常に充実した一日を過ごした。
自転車は乗った累積距離の何割かに比例して足が鍛えられ、慣れ、実力が上がる。努力こそが勝利に結びつくのだ。なせばなるというのは何と素晴らしいことか。
しかしこういうレギュレーションだと、逆に物量作戦でひたすら金銭と時間をつぎ込まねば勝てない。休日にひたすら練習して、いい自転車買うとかね。そりゃまあ練習は楽しいし、鍛えられるが、ニコニコ動画だって見たい。そこまでせんと勝負にならんのなら、はぐれメタルを狩るのとあまり変わらんではないか。麻雀好きとしては、もっと勝負に努力ではどうにもならん乱数が介在した方が含みがあって面白いように感じる。
何だかわからんが、自分はスポーツがそんなに好きではないんだ、と改めて思った。
(そりゃあ、高いところからながめて見れば、宇宙や世間は努力と結果が比例しないやりきれなさばかりだから、趣味くらい「なせばなる」を感じたい、というのはすごくよく分かる。が、細かい身の回りをちまちま眺めてみれば、しょぼいことは9割がたなせばなるように思う。だから趣味になぐさめを求めるよりは、理不尽な宇宙を感じるほうがおもろいのではないか。)

ようするにある種のアマチュアスポーツにはデッキコストみたいな公平なリソース制約概念がないのが不満だ。オリンピックも、たとえば水泳のメダリストの草葉のかげに、後戻りができないくらい水泳にコミットし人生を破壊された人がどれほどいるんだろう、と一度気になってしまうといまいち没入できなかった。プロの世界はうまくいった場合の報酬が巨大で、人生をかける価値がありそうだから、やくざと同じく寝込みを襲うなどあらゆる手段で勝利を目指す、というふうになりふりかまっていないのだろう。これだと皆が24時間をどう使うか、という勝負だから、デッキには8コストまでしか組み込めません、というのと同じで公平だ。
それに比べてアマチュアスポーツの場合は、勝利報酬が人生を養えるほど多額ではない。せいぜいメダリストとその周辺10人がいいところだろう。こんな額しかもらえないんだからみんな実人生を犠牲にせずほどほどに楽しくやろうね、というのが「アマチュア」らしさだと思うのだが、実際は時間と金銭を掛金にしたあとに引けなくなったオークション競争、チキンレースのようなコミットメント競争になっているのだ。人生そのものを差し出さないと勝てない。

書いてみると大げさだなあ。要するに私は人間の一生には5億円くらいの価値があると思っており、甲子園の優勝旗や金メダル(数千万~1億くらいの価値?)はとてもそれには見合わないと感じる。マイナーなスポーツの場合、優勝賞金その他を500倍にするなどとても無理だろうから、その代わりに「練習時間は一週間15時間まで」とか「費用は一律200万まで、これを越える場合は10万円につき2時間練習時間を減らすこと」といった、報酬に見合った縛りを設け、人生を破滅させない程度の資源しか投入させないよう厳守させたほうがいろいろ工夫が生まれておもろいのではないだろうか。