鈴木先生について

鈴木先生が面白く、数年前から漫画喫茶や立ち読みで読んでいたが、今やってるできちゃった婚裁判編が面白いどころの騒ぎではなく、ついに単行本を全部買ってしまった。読み返してみると予想以上に素晴らしく、また繰り返し読めそうでいい買い物だった。

特に熱いのは鈴木先生4巻の「教育的指導2」で、公園にみんなが集合し議論が紛糾するシーン。議題は元彼、処女性、それにこだわってしまわずにはいられない苦悩と、きついテーマなのだが、最高なのは場がふっとうして最高に盛り上がった場面で竹地のお母さんが登場するところだ。議論が発散し、登場人物は皆興奮し、おいおいどうなるんだ、と急いでページをめくると、何もこんなタイミングで登場しなくてもよいのにというくらい最悪のタイミングで神秘的な乱入者が現れる。竹地のお母さんは両手をにぎりしめ、フーフー言いながら真向かいに「これは由々しき問題ですよ鈴木先生!!」とわめく。その表情は醜く歪みつつもこれ以上ないくらい真剣でどこか神聖だ。
絵、話、リズム、と何度読んでもこのシーンは本当にすばらしい。ドストエフスキーの小説では、沸騰した議論に最悪のタイミングで場にもっともふさわしくない奴がいきなり乱入してきてすごい修羅場になる、というシーンがわりとあり最高なのだが、(教会にミーチャが乱入してきたり、ワルワーラ婦人とステパン氏がわめきあっている最中にスタヴローギンが帰ってきたりする場面。)このシーンはそれを連想させるし、作者もこういうカオスな修羅場劇が好きで、ドストエフスキーが好きなんだろうなと思える。
(修羅場なんかいろんなお話に当たり前に登場しそうに思えるが、グロさと美しさを兼ね備えた良い修羅場はそんなに多くない。創作するのがすごく難しいんだと思う。)

でもこのシーンはページをめくると醜くも美しい竹地のお母さんの絵がどーんと視界に入ってくる分、さらに衝撃度がましていると思う。しかもこの乱入が議論を収束させるテーマへと必然的に結びつく構成もすばらしい。


その他気づいた点
鈴木先生は心の底から教育と人間を愛しているように見える(彼がこんなに忙しいのは、人間を人間扱いするという面倒で大変なことを常日頃からやってるからだと思う)のだが、これは異常なことだろうし、よく考えるとなぜそこまでやるのか原動力はなんなのかさっぱりわからない。こういう動機がよく分からないキャラクターは普通は不気味なはずなのだが、そうではない。これは何でなのだろう。普通、やたらとエネルギッシュな作中人物には「深いわけ」があるもんだし、そうでないと読んでて唐突に感じると思うのだが。

鈴木先生のモデルの一人がアリョーシャだと作者の掲示板に書いてあり納得だが、そうなると気になるのは、アリョーシャにとってのゾシマ長老のような人がいたのか、ということだ。しかし鈴木先生過去編を書いた方が面白いのかどうなのかさっぱりよくわからない。現状で読者に唐突さを感じさせていない以上、蛇足になりかねないし。これもよくわからない。

・本当に面白いのだが友達にすすめづらい。安易に貸すとナマ派呼ばわりされそうだ。確かに小川はたまらんが、小川好きな人は傍目にわりときもく見えるだろうし、この本を面白がってすすめるってことは小川好きを公言するも同然だ。現状、鈴木先生は聖職者の面の皮をかぶったド変態(の面の皮をかぶった人間愛の偉大な実践家)で、三段目が見えづらい。口コミやマーケティングのしやすさといった観点では、鈴木先生ゾシマ長老に出会うという過去編があったほうがいいと思う。

・ループタイ好きという設定も、文芸作品としてはともかく、マーケティング的観点からすればかなりまずいと思う。表紙にでかでかと載ってる鈴木先生はループタイ着用で目力を用いており、一番最初見たときには変態教師の犯罪漫画かと思った。普通にネクタイを着用していれば、絵もうまいしそもそも非常にかっこいいし、表紙買いなどの別の需要が掘り起こせると思う。

・読んでると人間を人間扱いすること、妙になめたり尊敬したりしすぎないこと、レッテルをはらずに生身の人間として扱うこと、の素晴らしさとコストに何とも言えない気分になる。へんなレッテルづけや思い込みから少しずつ開放されていく生徒はみていて気持ちよく、鈴木先生が人間にレッテルを張らないために処理の効率化を起こせず計算量爆発している様をみているとうなるほかない。