森鴎外「寒山拾得」とメタ認知:盲目の尊敬と思考の節約について
昔のブログを発掘した。こちらのサイトが転載してくれていた。ありがたい。
http://foot365.seesaa.net/article/95172864.html
ダサい表現は改めて再録する。
◆この文章が目に留まった人へ:
あなたはなぜこの文章(まさにこの文章)を読んでいるのですか?
タイトルやサイトのデザインを見て、面白いことが書いてありそうな感じがしましたか?
(またはその逆に馬鹿で香ばしい内容な予感がしましたか?)
もしそうなら、それは何故だと思いますか?
この文章のテーマは、森鴎外の小説「寒山拾得」を読んで、そこら辺を考えることです。
訳の分からない小説ですが、本当にすごい話です。
しかし本稿は、文章を読んでわけの分からなさを
共有していただかないとあまり面白くないものになっています。
ぜひ、以下を読む前に青空文庫で小説本体を読んでみてください。所要時間は5分。
この文章を読むのにかかる時間概算5分。合わせて10分。お時間は取らせません。
森鴎外 寒山拾得
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/679_15361.html
信用できませんか?
それはいきなり「原文を読め」とか「すごい小説だ」とか書いてあるだけでその根拠を示しておらず、胡散臭く感じたからでしょうか。
あるいは、何らかの理由でこの文章に価値がないと判断されたからでしょうか。
「寒山拾得」は、そういった思考の節約や盲目の尊敬(すなわちちょうど今現在のあなたの思考の過程)についての話です。
これでも興味が湧きませんか?
興味が湧いたら、しつこいですけど先に上の原文を読んで、ちょっと考えてみてください。
◆この小説は分かりにくい
読んでも、
・どこが面白いのか
・作者の意図は何か
・登場人物(主人公を除く)の意図は何か
・ラストはなぜああなのか
といった点が分からない。森鴎外 寒山拾得縁起(鴎外による解説)によれば:
子供は此話には滿足しなかつた。
大人の讀者は恐らくは一層滿足しないだらう。
子供には、話した跡でいろいろの事を問はれて、
私は又已むことを得ずに、いろいろな事を答へたが、
それを悉く書くことは出來ない
しかしこのわけの分からなさが寒山拾得のすごさの源泉です。
順を追って説明します。
◆私の場合の初見時の感想
▼1:星新一のエッセイで
「ラストは終末とトラブルの暗示。
これから起こる、うんざりするようなごたごたを示している。
こんなすごい短編はない」
と書いてあったのを思い出し、青空文庫から入手。
▼2:読んでみたが、さっぱり分からない。
どこが面白いの?普通の人はわかるのだろうか?あるいは私が馬鹿なんだろうか。
→もう一回読み直してみる。
▼3:読んでいるうちにはたと気付く。
閭丘胤は
「何がすごいのか分からないが、豐干をすごいと思い、
(その豐干がすごいと言う)寒山と拾得がすごいのだと思っている」
私は
「何がすごいのか分からないが、星新一をすごいと思い、
(その星新一がすごいという)森鴎外のこの小説をすごいのだと思っている」
ということで、同じである。
驚いたのは、この同じさはかなりの部分普遍的だということ。
なぜなら、
「何がすごいのか分からないが何かをすごいと感じる」
ということは、情報に関する情報、つまり信頼に基づく普通の思考パターンだから。
日常的に常識や権威を疑っていては計算量過多で発狂してしまうので、普通はもっと思考を節約する。
別な言い方をすれば、われわれは合理的に計算して意見や信念を持つのではなく、確信を抱いてからそれを合理化しようと頑張る。
なぜその企業で働いたこともないのにその企業に就職しようと思うのか?
なぜ一部分しか(時には表紙しか)見ていないのにその本に時間を費やそうと思うのか?
よく考えてみると何か変。
いわれてみるとなるほどですが、言われてみないとなるほどと言えるほど常識ではない。
▼4:この驚きを感じたあと再再度読んでみたら、本当にそのままだった。
この小説の意図を理解できた!やったぜ!
▼5:この文脈で、ラストのわけの分からなさも理解できるだろう。
ではラストはどういう意味か?を考えてみると、そこで二度目の驚き。
閭丘胤は一番初めの私でもあるが、この驚きを自覚した後の私でもある。
つまり、ラストはよく分からないものの、閭丘胤の意図からは完全に離れている。
逃げられたのだから。
閭丘胤は
「奴らのすごさは完全にはわからないが、
すごさが分かっただけでもある程度すごさの理解に近づいただろう」
と考えて会いに行ったのだが、それは完全に間違っていた。
要するにすごさの理解は漸進的に近づけるものではない。と寒山拾得は主張している。
ということは、4:の小説に対する私の理解、はやはり完全に間違っており、的外れである。(と小説の中身は主張している。)
さらに驚く。
▼6:ついに上記のようなことを自覚するに至った。
ここでまた理解の喜び。
が、5のプロセスを経ているので騙されにくくなっている。
この理解はまた間違っているはずであり、
この本の主張が正しければ、あと何階層重ねても同じである。
▼7:以上が具体的に書かれているわけではないのに、読むとそういう思考の過程を得た。
しかもこの過程は見事にエンタテイメントになっている。
(驚き→種明かし→理解の喜び→理解が裏切られる喜び→…)
文章を読んで類似の体験はあまりない。
こういう小説はやはりすごいのではないか。
▼8:ということで最初は半信半疑だったものの現在はこの小説はすごいとの確信を得た。
得たが、この確信はまちがったものに依拠しており、それは間違っている、というのが小説の内容である。
しかし以上の理屈によって、だからこそこの小説はすごいと反復強化される。
一見ループしておりメノンのパラドックス*めいているが、
上記過程はなにもトリックを使ってはいないし、ごくまっとうのはずである。
にも関わらず(あるいはこの接続語句が象徴的だが、だからこそ)この過程は正しいのだと思う。
※
「それでソクラテス、あなたは、何であるか全く知らないものを、どうやって探求するのですか。
というのは、あなたが知らないものを、どのようなものとして目標に立てて探求するのでしょうか。
またもし幸いにしてそれに行き当たったとしても、それがあなたの知らなかったものだと、
どうして知ることができるのでしょうか。」
▼9:
この文章それ自体は寒山拾得のすごさに関する私の理解を文章化してみよう、というもので、
わざわざ書くからには論理一貫であると思って書いているわけだが、
その内容といえば「この文章の内容はウソです」というものに等しい。
しかしそれでも何らかのものをこの文章は含んでいると思う。どうですか。
あなたが寒山拾得を読んで、どのような感想を持たれたでしょうか。
その感想とこの文章を比べてどのような感想を持たれたでしょうか。
それなりに面白かったり違う感想を持った方がいたら、ぜひコメントしてください。
▼メモ
寒山拾得を書いている時点で森鴎外は文豪(=何だか分からないけどすごい人)の地位を確立していた。
二通りの理屈があるが、
1)鴎外のすごさを完全に理解しているわけではないのに、何となく鴎外はすごいと思っている一般読者をちゃかしている。
2)その逆に、みんなが理解してはいないのになぜか社会的には文豪扱いである自分を道化だと自虐している。
おそらく1からは2が導けるし、2からは1が導ける。
鴎外自身も書いてから自虐ネタだったことに苦笑したのではないかなあ。
ところで、寒山と拾得の話の元ネタは禅らしい。
禅問答が原理的に言語で解説不能といわれてるのは、
こういう類に循環しているからなのか?